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講師先生が、布教研修所の終了者へ宛てたメッセージをご紹介します。

 

「自浄其意 是諸佛教」

~自らその意を浄めよ これが諸仏の教えである~

 

 すべてのものごとは意(意業)を先導となし、意を主人となし、意によって作り出される。もしも汚れた意で語り(口業)行う(身業)ならば、その人に苦がつきまとう。あたかも車を牽く牛の蹄の跡に車輪が従うように。(ダンマパダ第一偈)

 

 全423偈よりなる『ダンマパダ(法句経)』はこの偈をもって始まる。『ダンマパダ』は現存するパーリ仏典の中でも最古層に属し、そこには素朴ながらも、仏教の何たるかを教えてくれる珠玉の教えがちりばめられている。この第一偈もそのような宝物の典型例である。

 

 仏教では行為(行い、業)に身業、口業、意業という「身口意の三業」を教える。

その中でも意業は、身業と口業に先立ち一切の行いの根本となる。

このことを、釈尊最初の説法である初転法輪の場面で確認しておくことにしよう。

 比丘たちよ、如来は二辺に近づくことなく。〔仏〕眼を生じさせ、〔仏〕智を生じさせ、勝れた智である全き覚り、寂滅の境地である涅槃へと通ずる(中道)を、目の当りに覚ったのである。

 比丘たちよ、如来が目の当りに覚ったところの

〔仏〕眼を生じさせ、〔仏〕智を生じさせ、勝れた智である全き覚り、寂滅の境地である涅槃へと通ずる(中道)とは何かといえば、それは八正道である。

すなわち、

  1. 正見(正しい教えに基づく正しい見解)

  2. 正思(正しい意業)

  3. 正語(正しい口業)

  4. 正業(正しい身業)

  5. 正命(正しい生活)

  6. 正精進(正しい努力、修行)

  7. 正念(正しい集中力、マインドフルネス)

  8. 正定(正しい意の統一、平定)

である。

 比丘たちよ、これが、如来が目の当りに覚ったこころの、〔仏〕眼を生じさせ、〔仏〕智を生じさせ、勝れた智である全き覚り、寂滅の境地である涅槃へと通ずる(中道)なのである。(ヴィナヤ・ピタカ(律蔵)第1巻)

 

 一見すると機械的にも思える八正道も、三業の立場から観ると実にすっきりと理解できる。

「2」の意(意業)を調えることによって、口業と身業が調えられる。

 

八正道では便宜上、全ての項目が順番に並べられているが、実際には「2」の正思が完成すると、「3」と「4」の正語と正業が同時に完成するのである。

 身口意の三業が調えられて、はじめて「5」の正しい生活が送れるようになる。

仏教おける正しい生活とは、身口意の三業を調える生活なのである。

そして正しい生活が送れるようになってはじめて「6」の正しい修行に移行できるようになる。

修行の際に心がけることは、今の一瞬に意を集中させることである。

これを「7」の正念という。

唱題の際には「南無妙法蓮華経」の七字をお唱えすることに集中させること、これが正念である。

正念によって「8」において意が正しく統一される。

人はサンスカーラ(潜在的(自分)形成力)によって、その時々の(自分)を作り出していく。

 

サンスカーラは無常であり(諸行無常)。

その発動を制御する事は容易ではない(一切皆苦)。

人はサンスカーラによって作り出される偽りの(自分)を、真実の私(自己)(アートマン)と思いなしてしまい、両者のギャップに苦悩する。

 

この〈自分〉と〈自己〉のギャップこそ、仏教における「苦」なのである。

 

「老病死」そのものが苦なのではない。

 

老いたくない〈自分〉と老いていく〈自己〉、

 

病みたくない〈自分〉と病んでしまう〈自己〉、

 

そして死にたくない〈自分〉と死んでしまう〈自己〉、

 

この両者のギャップが仏教における苦なのである。

 

八正道(中道)における「八、正定」は、揺れ動く意をしっかりと定めることで諸行無常を乗り越える、唯一の手段なのである。

“諸々のサンスカーラは一定していない(諸行無常)”と智慧をもって観るとき、人は苦を厭離する。これが涅槃へと至る道である。(ダンマパダ第277偈)

“諸々のサンスカーラは思い通りにしがたい(一切皆苦)”と智慧をもって観るとき、人は苦を厭離する。これが涅槃へと至る道である。(ダンマパダ第278偈)

“今、私が「これが私である」と思いなしている「私(自分)」は、「本当の私(自己、アートマン)」ではない(諸法無我)”と智慧をもって観るとき、人は苦を厭離する。これが涅槃へと至る道である。(ダンマパダ第279偈)

 

 意を定め、諸行無常を克服した人は、安楽・清浄なる涅槃へと至ることが可能と成る。

このことを『ダンマパダ』では、第一偈の対象と成る第二偈で謳っている。

 すべてのものごとは意(意業)を先導となし、意を主人となし、意によって作り出される。もしも浄らかな意で語り(口業)行う(身業)ならば、その人には安楽(涅槃)がつき従う。あたかも影がその人から離れないように。(ダンマパダ第二偈)

まさしく意を浄めることこそ、仏教における精髄なのである。

 

 〔口業と身業で〕一切の悪をなさず善を修習せよ。〔そのためには〕自らの意(意業)を浄めよ。これが諸仏の教えである。(ダンマパダ第183偈、七仏通戒偈)

 

 「2」の意業を調える。そのためには、なにをもってもまずは「1」の正しい教えを欠かすことはできない。

 

わたしたちは『妙法蓮華経』という正しい教え(正法)に帰依し、お題目を正念してお唱えすることで自然に釈尊のご功徳を頂戴し、意が調えられ、諸行無常を克服していくことができるのである。

『南無妙法蓮華経』

『南無妙法蓮華経』

『南無妙法蓮華経』

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